2023年10月5日

生きるを預かる

生きるを預ける関係性

「生きるを預けてくれる関係性を創りながら生きてゆくこと」

人はみな孤独には生きれない、常にだれかとつながりあい生きてきた。そのつながりなこの現代社会において、薄っぺらなものにし、孤独を作り上げ、あたかもつながりあったかのように見せていることは事実である
それが「縁」である。
社会は地縁、血縁で形成されたいたが1980年代から始まったグローバル社会への移行から、個人の意志を尊重し、世界での活躍を視野に入れた取り組みが社会で取り行われ、多様化により様々な考えが世界から情報が入りそして蓄積され、個人の意見尊重が標準となった。代表的な会話の例が「あなたはあなた」であるように考える。
経済発展のインフレのように、急激に成長した個人尊重の社会思想は瞬く間に、養育の世界にまで進出してきた。それもそうである。その時代に育った子どもらが今は養育者で、現代日本の経済システムを労働しながら支えている。

「危険意識の差異が生む社会構図」
「生じる意識の差異」
「違いは生じて当たり前」
「安全と危険」
「願うことがちがう」
「つながることが幸福と思えない」

理解を求めるが伝わらない、伝えたが理解できない、お知らせしても見ていない、見てもわからない、理解しようとしない、嫌い、意味が分からない、わかろうとしない、責める(大きな声で、みんながそう言ってますなど)
反対に理解しすぎてリスペクト(尊敬)、自分ができないので子どもにはいろんな体験を・・・、理解してもらいたい、知ってもらいたい、いいことなのに、悪いことなのかもしれない、絶対いいことだ!!
ここに生じる気持ちの差はなんだろう?!
前提に差はあっていいということ。あってはならないのは責めるということ。
自然体験に限らず、日常の暮らしのなかでその事象や言動に対する思いは違うものである。そもそも自分と同じ人はいないから。しかしどこか類似しているところもある。それを確認するには会話や対話や議論、時にはディベートが必要になってくる。

友達をたくさんつくろう!それはなぜだろうか?
たくさんいるという数の論理が優先され、その内容は重要視されない、見栄えを重要視する思考が気持ちを支配していく。
私の友達はそんなに多くない、2,3人ではなかろうか?そして同級生にはほとんどいない。年下や年上だ。でも年上と年下も誰でも敬うし、対等であることを信念にしている。
知り合いはめちゃくちゃいる。それもなぜか?自分の価値観を常に揺れ動かしておきたいからである。生き方や考えを決め切り、生きている人が世の中の大半であるが、そうではない。柔軟に対応し、変化し、意識を変化させていくことが、「幸福」であると信じてるし、policy(意:市民権)になっている。そしてこのことが今、人を幸せにし、不幸にもさせていることに不安を感じている。だから、いま気持ちの中の価値観が揺れ動いているのだ。終活の目標は、地球を救うことである!

この気持ちの揺れ動きに差異が生じ、問題になるのである。
揺れが大きければ攻撃に転じるかもしれあい、揺れが大きくとも許せるかもしれない、揺れ動かされ、不安になり、その不安の処理が自分の気持ちをover capacity(限界)していくことは、抉られるように不安を助長させ、ストレスを感じるようになる。
不安や葛藤の処理がストレスにより増幅していくと、不安や葛藤にも向き合えず、自分を責めたり、他人を責めたり、孤独に転じていく。だから、友達の数は多いだけではだめなのだ。

問題の派生
何を対話すいればよいのか?それは本質的な問題や事の根幹である。しかしこれも正直疲れる。人はそもそも探究する生き物。だがそうではいかないのがこの世の中。効率化を求めるばかり、会話をそぎ落とし、簡単よりも探究し、話を深く掘り下げる場面でそれは不可能な状況に陥ってることは間違いない。探求は楽しいに変化し、結果、楽になっている状況だ。すべてヒトが作り上げているから恐ろしい。なんでなんだろう?でもヒトって楽したいんだよな。やっぱり。楽して生きたいよ。ヒトが自分が辛いを思いをしているところなんて見たくないのが本音だよね。苦しいだけでは生きられない、楽しいだけで生きられるかというとそうではない。苦しいことの先に楽しいがやってくる。楽しいの先に苦しいがやってくる。不思議、楽(ラク)の効率化だね。

気持の揺れに耐えられない状況は生きながらにしてどこに発生しているのか?
毎日生きることに発生している。
over capacity(限界)で生きていると、社会の変化に対応できない、責めてしまう、羨んでしまう。
自分は自分でいいのに、ゆがんだいい人になって、辛くなる
責めれば自分は楽になる、でもそれも一時のことで、そのover capacity(限界)は解消されていない。
余暇、つまり息抜きと人との関係性のなかの受容感が日々の積み重ねにより解消される。
余暇とはココロの中の感情を意識しない状態である
責めることはover capacity(限界)と直結している、だからこそ、理解や答えのない対話が必要なのだ。
ただゆっくりと話せばいい。どうにもならないことのほうが多く、答えもあまりない、
ストレスから人は逃れられない、逃れることは無理なのだ、でも軽減することができる
自分と価値観と違うヒトと会い、話すことだ。そして気持ちを揺さぶられることである。
揺さぶられた気持ちを責めることで落ち着かせようとしないことだ。

生きている人を預けるには信頼が必要だ
預けているにも関わらず、自分の思いでヒトを責めることは道理に反している
大義が成立しない
手段を択ばない攻撃は生きる人を預け、預かる信頼という関係性から大きくずれている
だからこそ、対話をするのだ

ヒトにとって嘘をつくことは容易だ
ヒトにとって裏切ることは容易だ
ヒトにとって一番むずかしいことは、許すことである
お金で買えない無償の愛は、動物がみな持つやさしさなのである
やさしさに触れたとき、人は許せるようになる